物忘れ、認知症E

呆けやすい性格、呆けにくい性格

性格も関係 呆けやすさ

 前回は、認知症にならないために個人の裁量ですぐできる方法を総まくりで列挙してみましたが、今月号では、認知症になりやすいタイプの人を性格面から雑学的に述べてみたいと思います。
 よく、あのタイプの人は呆けやすいねとか、あの性格だからたぶん呆けは来ないだろうね、とかいう話は茶飲み話にのぼります。
 性格とは何かというのもなかなか難しい問題を含みますが、先学の示すところをざっとまとめると、やはり呆けやすい性格というのはある程度あるようです。

どんな人が 呆けやすいと 思われますか?

 経験的によくいわれるのは、いわゆる頭の固い人。言葉を変えれば、融通のきかない、頑固な人は危ないということではないでしょうか?
 また、無口で、自分を開けっ広げにできない、閉鎖的で頑ななタイプも呆けやすい傾向にあるのではないかという話も、何となくうなづけますね。
 逆に、年を取っても、「社交的」「明るい」「開放的」という性格の人は健康面でも、また認知症になりにくいタイプとしても有利な人だそうです。
 しかし、これらの性格を持ち合わせていたレーガン大統領もサッチャー首相も、最後は認知症になりましたから、性格だけではあまり楽観はできませんね。

「わがまま」な人は 危ない

 それでも、認知症の老人群は、呆ける前には「わがまま」「頑固」「潔癖」「杓子定規」「閉鎖的」という人が多かったという研究はあるようです。
 「わがまま」になるかどうかは「育ち」「幼児教育」が大きな影響を持つといわれますから、呆け老人をつくらないためには三つ子以前からというか子供のときからの周囲との関係性に気を遣うことが意外と大事ということになりそうですね。
 性格が直るかどうかは別として、極端な性格というのは問題がありそうですね。性格も含め何事もほどほどが良いのかもしれません。
 でも、わかっちゃいるけど直せないというのが性格の性格たるゆえんなのかもしれません。
 どうしようもなく呆けた老後の日々を送りたくなければ、ある程度老人に近づいてきたけれども、まだ呆けは来ていなさそうだという今の内に、このあたりも頭に入れて「わがまま」にならない対策を考えておくべきかもしれません。

神経症の傾向と 内向性の組み合わせ

 ノーベル医学賞の選考委員会があるスウェーデンのカロリンスカ研究所が1987年に地元の75歳以上の住民を対象に認知症と性格の関連を調べる調査をしたところ、神経症の傾向が弱くて、外向的な高齢者は認知症になりにくいという統計的結論に達したという有名な発表があります。
 ここでいう神経症の傾向が弱いということは、ストレスや刺激が加わっても、過剰に反応せず、安定を保っていられる人ということを意味します。
 逆に神経症の傾向が強い人というのは、軽い刺激、ストレスにも不安とか悲しみとかのネガティブな感情を持ちやすく、心拍数も血圧もすぐ上がりやすい人のことです。情緒不安定とか、過剰反応をすぐする人などがこれにあたります。
 多少のことがあってもどんと構えて冷静沈着が保てるという、神経症の傾向が弱い人、そして、初対面の人ともすぐ打ち解けられ、話し好きといった外向的な性格を併せ持った人が呆けにくい、この反対だと呆けやすいということなのでしょう。
 なかなか難しい問題をはらんでいますが、神経症傾向の構成要素としては、不安・敵意・抑うつ・自意識・衝動性・傷つきやすさなどがあげられます。
 一方、外向性の構成要素としては、温かさ・群居性・断行性・活動性・刺激希求性・良い感情などがあげられますから、これらキーワードをヒントに、老後、少しでも呆けを軽くするために、性格面の見直し、手直しに着手されてみられたらいかがでしょうか?

他人の性格は 直せない

 いずれにしろ、他人の性格というのは子供でも連れ合いでも直せません。変われるのは自分だけです。しかし、その自分の性格もなかなか直せないというのが人の性です。
 性格そのものは直せないとしても、性格がストレートに思考・行動・振る舞いに出てしまうという傾向は、強く自省して、改造の必要性を痛感すればある程度変えることはできるかもしれません。
 その結果、少しでもひどい呆けが早くから出ることから遠ざかることができることを期待したいものですね。

性格と問題行動

 おつき合いのある人が呆けてきたなあというのは、呆けが行動に出てきたときでしょう。
 問題行動として有名なのは無意味に歩き回る徘徊。妄想や幻覚、攻撃的行動、昼と夜が逆転する睡眠障害、汚物を周りに塗ったり、食べたりというところでしょう。
 誠心誠意介護してくれる人に感謝どころか暴言・罵倒。このあたりに元々の性格が出るのだといわれています。
 問題行動には、それなりの理由があるのだ、たとえば徘徊は道に迷ったためだし、何かを口にするのは食べたことを忘れたからだということは理屈では判っていても、罵倒され暴力で向かってこられては介護者も大変です。
 しかもこの困った性格はこちらからは変えられない、呆けている本人もこれから精神修養で性格面で極端さがマイルドになることも期待できないとなると、あとはこちら側がケアの仕方を工夫する以外ないということになりますね。

造反有理?

 このとき考えておかなければならないのは二つだといわれています。
 まず、問題行動のもとになった理由は是非を問わず認めてあげること。さっき食べたばかりなのにそれを忘れて「食べてない」といったら、それが問題行動の理由なので否定しないで認めること。何かまともな食べ物をあげて少しで良いから食べて貰う。そうすれば落ち着く。「さっき食べたばかりじゃないの」といって聞かせても、食べたことを思い出さないことが多いし、不満は残る。たいていの人は自尊心は死ぬまで残っているので、いって聞かせられる態度が自尊心を逆撫でされたと受け取る性格をしていれば、間違いの指摘などは逆効果になる
ことが多いといわれます。
 こちらが折れて、本当は、違うとか良くないと思っていても相手の理由をまず認めて、相手にあわせて何か食べさせれば、胃袋も心も満足しておとなしくなることが殆どなのです。

つける薬はなし

 呆けた相手に、こちらが事実を指摘し理屈を話しても、理解する能力が欠けているのですから、からっきし通用しません。
 かえって子供扱いされたとか、無視されたとか、相手にしてみたら自尊心が傷つけられることばかりなので興奮度はエスカレートして、より頑固度を増してしまうことが心配されます。そうすればこちらの消耗度もエスカレートしてしまいます。くたびれ果てます。
 泣く子と地頭には勝てぬという言葉を、泣く子と呆け老人には勝てぬといい換えて、相手の勝手ないい分、理由を察してうまくつきあう以外に打つ手はないのでしょう。

とにかく相手の 自尊心尊重

 余分なことかもしれませんが、この相手の自尊心を何より尊重する態度というか習慣というか、これは相手が何も呆けていなくても、この世でうまくやっていく究極のコツともいわれていますから、普段から意識の片隅においておくと今も将来もあなたのためになる教訓になるかもしれません。
 相手の自尊心を尊重する人は、相手からもあなたの自尊心を尊重してくれるようになるのが普通です。相手の自尊心尊重ということがいつも念頭にあるという意識が染み込んで、これが第二の性格的なものにでもなれば、あなたが呆けても、呆けの相手をせざるを得ない立場におかれても、きっとプラスに働くことでしょう。