『もう肉も卵も牛乳もいらない!」』 を読もう

第十二回(最終回) 目覚め

 全12ヶ月にわたってご紹介してきたエリック・マーカスさんの『もう肉も卵も牛乳もいらない!(原題:VEGAN)』は今月号で最終回となります。
 是非早川書房刊のこの本を書店でお求めになり、座右の図書の一冊に加えて下さい。
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 目覚め

 一九八七年に初めてヴェジタリアンに出会ったとき、彼はすでに一四年間、肉を食べていないと語った。私は、この人は一生、こうして禁欲的に過ごすつもりなのかと思った。今では、肉を抜いた食事をすることは何一つ厳しいことでも奇妙なことでもないと思っている。この一二年間、私は植物性の食品だけで健やかで幸せに暮らしている。
 大半の米国人同様、私も動物性食品をふんだんに食べて育った。しかし私はヴィーガン(完全菜食者)になった。その経緯を説明したい。私の両親は、健康の価値を教えてくれ、健康に目配りして長く幸せな生涯を送るよう教育してくれた。さらに動物を傷つけてはいけない、差し迫った理由もない場合はなおさらだと教えてくれた。しかし青年期になると、私は両親が整えてくれた食卓がそうした価値にそぐわないことに気づき始めた。
 一七歳になった頃、私は友人の母親に肉を食べるのを止めようかと思っている、と話した。「まあ、だめよ」とニューマン夫人は私を諭した。彼女はその二〇年も前に大学で栄養学を習っただけに食品の専門家を自負しており、人間が健康的に暮らしていくためには絶対に肉が必要だと、きっぱりと言うのだった。その語調に圧倒され、私はヴェジタリアンとは虚弱で貧弱な人たちなのかと思った。しかしハンバーガーこそやめなかったが、靴は革靴からキャンバス地のものに代えた。健康は靴の素材には関係ないが、動物を殺すことにやましさを覚えて
いたからだった。
 大学一年の時、私はとうとう肉食をやめる決心をした。きっかけは二つあった。一つは、まったく偶然に目にした映像だった。私は当時寮に住んでおり、隣室の男はビデオデッキを持っていてしばしば映画のレンタル・ビデオを観ていた。ある時、私が隣室を訪ねると彼らは食肉処理場で撮影されたシーンを観ていた。血を流しながら死んでいく牛が映っていた。その牛は、画面からじっと私を見つめているようだった。私は身震いしながら部屋を後にした。
 動物にひどい仕打ちをしながら健康な食事をするということに、どうしても納得できなくなっていたのだ。
 数カ月後、二つ目のきっかけが訪れた。これも、ポップ・カルチャーからの影響だった。私はロックバンド「ボストン」の大ファンで、ちょうどサード・アルバムを買ったところだった。ライナーノーツを何気なく眺めていると、ギタリストのトム・ショルツをはじめ数人のメンバーがヴェジタリアンであり、菜食主義について興味があれば「家畜のための改革運動(FARM)」に問い合わせてほしいとのメッセージが載っていた。
 私は目を疑った。身長は優に一八〇センチを超し、ステージで強烈なエネルギーを発散するあのトム・ショルツがヴェジタリアンだって? どうやらニューマン夫人の言う事実とやらを疑うべきときのようだった。私は三〇分もただぼけっと座り込んで考えを巡らしていたあの日をいまも忘れられない。
 ヴェジタリアンの何たるかはともかく、自分がそれになるのはぞっとしなかった。私はただ、動物を食べたくなかっただけなのである。しかし、それでは何を食べればいいのか? まさかレタスと豆腐だけ?
 一九九五年の《エコノミスト》のある記事が、このことを実に端的に言ってのけている。「卵を産み続けられる間、雌鶏一羽を自分のために靴箱に押し込めていることを自覚している人はほとんどいない。しかし、これこそケージで飼育される鶏の農場直送新鮮卵≠食べているすベての人がやっていることだ」
 私はFARMに短い手紙を書いて、資料を請求した。その翌週、ビラが送られてきた。それには、ヴェジタリアンは非ヴェジタリアンと同様に健康に生活でき、肉食を止めることはまったく難しくはないと書かれていた。
 ちょっと計算をしてみると、標準的なアメリカ式の食事を生涯続けると、二〇〇〇羽の鶏、七頭の牛、一二頭の豚を食べることになるとわかった。こうした動物はすべて、工場農場の非人間的な環境で育てられ、自分のために殺されるはずなのだった。こうした物事の連鎖に連なるのは嫌だった。
 さらに、単純に肉を食べないだけでは不十分であることにも気づいた。卵や乳製品も食べるわけにはいかなかった。完全なヴィーガン食以外は、やはり動物を苦しめ続けるからだ。もし七〇歳まで一日一つの卵を食べ続けていたら、私のために三〇羽の鶏が殺されることになる。一羽の雌鶏は、殺されて若い雌鶏に交換されるまでに、平均して五〇〇個にも満たない卵しか産めないからだ。こうした鶏たちが私のために狭苦しいカゴに閉じこめられる期間は、延べ三五年間。卵を私が一つ食べるために、雌鶏は狭い鳥カゴに三〇時間監禁され続けなければ
ならない。
 肉食を止めてヴィーガンになるのは、素晴らしい経験だった。それは予想していたような難行苦行とはほど遠かった。選択の幅を限定するどころか、私の食事はより美味しく、バラエティに富んだものになっていった。
 菜食化が進むにつれて、最後のステップ、つまり牛乳や卵もやめる準備が整ったと思った。卵を止めるのはまったく簡単だった。しかし乳製品となれば話は別だ。チーズ・ピッツァの無い人生なんて、生きるに値するだろうか?
 この頃、私は新しい家に引っ越し、これを機に完全なヴィーガン生活を送ろうと決心した。もう、植物性食品以外は、一切家に持ち込むまいと思った。もっとも街に出たときには、一、二切れのピッツァは食べていた。しかし、カシュー(ナッツ)・チーズ=Eピッツァのレシピを覚えたとき、普通のピッツァと縁を切る覚悟ができた。あるヴェジタリアンではない友人がこの料理を評していわく、「名前はぞっとしないが、味はチーズ・ピッツァよりも旨い」。この大発明のおかげで、私は完全なヴィーガンになった。
 私がヴィーガンになった本来の理由は動物愛護という倫理的なものだったが、他にも予期せぬメリットがあった。
 大学に入った年、私は一〇キログラム前後も太ってしまった。しかしヴィーガンになったとたんによけいな脂肪は消滅し、高校卒業時と同じ体重になった。健康状態も総じて良くなった。かつてはいつも風邪を引いていたが、いまでは一年に一度ひくかひかないかだし、ひいても以前よりずっと穏やかだ。また、花粉症にも一年に二度ひどく悩まされたものだったが、乳製品を止めると同時に、それらは徐々におさまっていった(ヴィーガン食と風邪の関係は科学的にはまだ解明されていないが、私の知るヴィーガンはほとんど全員、動物性食品を止めて
から風邪やアレルギーの発症回数も減り、程度も軽くなったと口を揃えている)。ヴィーガンになった一年後にコレステロール値を測ると一二八だった。いずれ心臓病になるのでは、という恐れは、ずいぶん軽くなった。また、ガンや他の病気の心配も軽くなった。安心そのものが励みになるものだ。
 ロー・スクールを卒業したシンタニ(ヴィーガン減量法を考案した博士)は、食事法の大切さに目覚めて医師になろうと思った。メディカル・スクールでは初年度に優秀学生に選ばれ、素晴らしい成績を維持した。
 「自分でも信じられないほどの変わりぶりでした」とシンタニは言う。 「ヴィーガンになって、それまでの二六年間は五里霧中だったと思いました。私は生まれて初めて、自覚さえしていなかった能力を引き出せるようになったのです」
 世界中でもっとも複雑な臓器である人間の脳が、何を食べても同じように働くと考えるのは、まっとうな考え方だろうか? 牛、鶏、アイスクリームを食べるのと、果物、野菜、全粒穀物を食べるのとで、感じ方や考え方がまったく変わらないと考えるのは合理的だろうか?
 著名なヴェジタリアンの名を上げただけでも、もっとも偉大な思想家や優しい心根の持ち主のリストができる。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョージ・バーナード・ショー、アイザック・バシェヴィス・シンガー(ノーベル文学賞作家)、マハトマ・ガンジー、レオ・トルストイ、その他無数である。世界でもっとも偉大な人々が二〇〇〇年に渡ってこの食事法に惹きつけられてきたし、それは社会全体でヴェジタリアニズムを危険とか奇妙と排斥している間も止まなかった。
 いまや菜食は著名人だけのものではない。あらゆる年齢層や分野の人々がヴェジタリアンやヴィーガンになっている。おそらく、栄養についての知識が増しているためでもあるだろう。あるいは徐々に同情心が強まってきたからかもしれない。
 典型的なアメリカ式食事法は、人々を動物や自然や自らの健康に対する戦いに駆り立てている。どんな理由でヴィーガンになるのであれ、根底にあるのは同情であり、同情は大きな変化をもたらす。人となりが食べ物でわかるなら、食べ物を変えることは大きな変化をもたらすはずだ。多くの人がヴィーガンに転向し、健康を増進している。おそらくこうした健康増進が、精神的目覚めを伴うことが多いのだろう。こうした目覚めには長い時間がかかることがあるが、やがては食事法を変える前とは違う自分になっていることに気づくはずである。そして
この目覚めは、誰に対しても開かれているものと、私は信じている。