長寿のもとはよく噛むことから

咀嚼と唾液の効用と、ボケ・がんをはじめ生活習慣病の予防

神奈川歯科大学教授 日本咀嚼学会理事長 斉藤滋先生

よく噛むという躾が 置き去りにされて今…

 噛むことの大切さは昔からよく言われていました。日本人が受け継いで来たあらゆる食事の躾――口にものが入っている時はしゃべらない、移り箸しない(口にものを運んだら箸は一旦置く)、姿勢は正しく行儀よくなど――は「よく噛む」ことが基本になっています。
 しかし、噛みごたえのない精製食品や加工食品などの氾濫を含め、戦後の食生活の急激な変化と共にこうした躾はすっかり置き去りにされ、それが今世界から言われている「日本の常識、世界の非常識」という日本の孤立化につながり、グローバルスタンダードからかけ離れてしまった集団をつくり上げてしまったことにも通じると、神奈川歯科大学の斉藤滋教授は指摘されています。
 近年、若者から子供にまで広がっている歯周病、顎関節症の急速な増大に、大人たちは改めて「よく噛む」ことの大切さを再認識し、日本咀嚼学会もその一環として設立されました。
 今月は、咀嚼学会の設立に加わり理事長をされている斉藤教授に、噛むことの大切さを教えていただきました。

かむは長寿・元気のもと
百歳を迎える島津久子さん
長寿の秘訣は"よくかむ”

――実は昨日、昭和天皇の末のお嬢さん、島津貴子さんのお姑様の島津久子さんにお話を伺う機会がありまして、今年8月に百歳をお迎えになるそうですが、98歳までは現役でいろいろな社会活動に従事されていたそうです。姿勢も懍と、大変お元気な様子に思わず長寿の秘訣を伺いましたら、「一番は、よく噛むことではなかったか」と。「どんな物でもとにかくよく噛む。1回の食事に大体1時間はかけてよく噛むことを心がけています」と大変しっかりした口調でおっしゃっていました。そして、二番目に「独り暮らしで、自分の身の周りのことは
自分でする」。さらに、「大変好奇心が旺盛で、今でも見ず知らずの人に出会ったり見ず知らずの所へ出向くのは全く苦にならない」とおつきの方が付け加えられたのも印象的でした。
 偶然にも今日は、咀嚼学会の理事長をされている斉藤先生にお会いするのにちょうど良いお話を伺ったと思ったことです。
斉藤 それは私達の仕事の上でも大変勇気の出るお話で、私共もお目にかかって是非一言アドバイスをいただきたいですね。
 島津さんのお話の通り、噛むことの大切さ、或いは歯というものの大切さは昔から言われていることで、例えば「齢(よわい)」という字は「歯」に「命令」と書くのも、歯の機能の重要性を昔から経験的にわかっていた証拠だと思います。
 しかし、今の人は伝承的な言い伝えでは納得しない、客観的価値判断基準がないと納得しないので、学術的手法でそれを解明するお手伝いをさせていただいているのが私達というわけです。
 昔から長寿は人間の共通した願いで、実際には医学が発達した今の人達の方が長生きしていますけれど、昔の人達の方が健康維持への真剣さ、或いは実践面では遥かに優れています。そういう長寿のノウハウの一つに咀嚼もあるわけですが、現代人はそうした伝承的なノウハウを無視してしまい、現代医療を過信しそれに頼り切っています。
 そうした自己管理を無視した現代の生活習慣は、例えば家庭では「噛みなさい」という躾がいつの間にか「急いで食べろ」となり、学校では給食時間を減らして行事や受験勉強にふりむけていることに現われています。
 その結果、食生活を中心としたライフスタイルが崩れ、過去、延々と続いた日本の食環境を激変させてしまいました。
 私は、これからの医療は病気をいかに防ぎ、健康な状態をいかに高めるかという自己管理の啓蒙に重点を置いて、例えば歯科医ならばいかに虫歯にさせないか、歯槽膿漏にさせないか、死ぬまで歯を持たせるかといった方向を目指さなければならないと思います。
 島津さんが実践されている自分でなんでもする、人に対する思いやり、好奇心を持ってアウトプットを大きくすること、それプラスよく噛むこと、こうした生活習慣は長寿の最大の秘訣、脳を衰えさせない最大の手段になっているわけで、大変学ぶべき点が多いと思います。

選挙必勝の活力源は 握り飯を一口百回かんで

――先生方が「日本咀嚼学会」を設立されたのは、自己管理の啓蒙というところにあるわけですね。
斉藤 そうです。それで、噛むことが如何に重要か。
 私は地元である小泉厚生大臣には時々会う機会がありまして、彼と会って一番印象的なエピソードは選挙の時、食事は車の中で握り飯なんだそうです。しかし、この握り飯を一口百回位、徹底的に噛む。そのお蔭で今まで選挙期間中では倒れたことがない、元気が衰えたことがないのだそうです。
 私は「選挙の時だけでなく、平時も毎日よく噛んで食べればもっとふっくらしてきますよ」とアドバイス申し上げるんですけれども、この小泉さんのエピソードからも、噛むことは心身の活力を生む原動力になることがおわかりになると思います。
 なぜ噛むと活力が生まれるか。噛むことは闘争の原点なんです。野生動物の世界では噛み勝った方が相手を食らうわけで、負けたら噛めない、食われてしまうわけです。
 それは、闘争や緊張した状態ではアドレナリンが出て、それに応じて肝臓に蓄えられている糖が血中に放出されて、血糖量がみるみる上がり、それが噛むための闘争のエネルギーになるからです。
 しかも、噛むのは歯だけで噛んでいるわけではない。相手の急所はどこか、どれだけの力が出るか出せるか、こうしたことをとっさに判断して、適切な行動をとらせているのは大脳が命令しているからです。さらに、噛んだ時に相手の弱いところ強いところを歯で記憶し、次なる闘いの時にその記憶を効果的に出すこともします。
 これは噛むという運動を通して、末梢からの感覚情報が脳に入力(インプット)され、さらに脳を介して身体全体が活性化(アウトプット)されるということで、歯と脳は二人三脚ということなんです。

かんでボケ予防
――咀嚼は大脳の神経活動を活性化する――
歯が残っている人ほど、 よくかむ人ほど、 脳細胞は活性化している

――今までのお話だけでも先生がおっしゃる「咀嚼は健康の基本中の基本」であることがよく理解出来ました。中でも最近は脳への影響が注目されていますが、噛むという運動は脳(の神経細胞)をダイレクトに活性化するのですか。
斉藤 咀嚼が脳細胞を活性化するのは、多くの臨床例や疫学調査からもわかっています。九州大学歯学部の研究グループが高齢者の方を対象にした調査でも、痴呆症の程度が進むにつれて残存歯数が少なくなり、義歯の使い方も下手になり、噛む力も弱くなって、重度の人ではほとんど噛んでいないことがわかりました(図1)。
 こうした事実から、噛むという運動によって脳の神経活動の活性化が起こることが推測されます。
 私達はその仮説を、「機能磁気共鳴イメージング(fMRI)(※写真注)」という方法で検討してみました。
 その結果、この写真(写真1)のように日頃よく噛んで食事をしている人は、噛んでる時にこめかみの後ろ辺りの大脳皮質の運動野が活性化され、運動を補足する部位(補足運動野)でもしばしば活性することがわかりました。
 これは噛むという感覚的なシグナルも直接に脳に伝わって、脳の神経細胞が活発になることを示しています。しかも、噛む回数が多い人ほど強く活性化されているので、噛むことが脳の活性化に重要な役割を果たしていることがわかります。
 また、神経細胞の活動が盛んになることを示す「c―fos」という遺伝子では食後に活性化されることがマウスの脳の切片でとらえることが出来ました(写真2)。

かまないとどんどんボケる

――よく、噛む人はボケないと言われるのも頷けますね。
斉藤 私達の最新の研究でも、噛むと脳の働きが活性化され、痴呆症が改善されたり予防できることがわかりました。
 泳ぎ疲れると休憩台(止まり木)で休めるように設定したプールで、遺伝的に老化が速いマウス(老化促進マウス)を泳がせると、少しボケかかったマウス(SAM―P/8)でも学習するに従って休憩台に辿りつく時間がだんだん短くなり、最初は1分間かかっていたのが、1週間から10日もすると正常なマウスと殆ど同じレベルの4〜5秒で辿りつけるようになります(図2)。ところが、臼歯を削り取って咀嚼運動を低下させると、同じ日数をかけてもなかなか休憩台には辿りつけず、学習能力が著しく障害されてしまうことがわかりました(図
3)。
 同様の結果は、咬む筋肉を動かしている咬筋神経を切断しても得られました。
 一方、知能が正常な老化促進マウス(SAM―R/1)は、休憩台に辿りつくのに最初は約20秒、1週間で4〜5秒に短縮されます(図2)。しかし、彼らの場合は、臼歯を削り取っても咬筋神経を切断しても、学習能力への影響はほとんどありませんでした。
――ボケを起こしたマウスに限って、噛まないとさらに学習能力が低下してしまうということでしょうか。
斉藤 ボケかかったマウスも、1週間から10日の学習で正常マウスと同じレベルに達しますから、ボケの始まり、つまり、殆どの高齢者に現れる初期知能障害では時間はかかるけれども毎日トレーニングすれば正常な行動が出来るのに、歯を失ったり或いは噛まなくなった途端に、老化やボケがドンドン進んでしまうということですね。
 ですから、老化やボケを完全には阻止することは出来なくても、噛むことによってその進行を抑えることが出来るというわけです。

かむほどに記憶力アップ
――脳の栄養状態・血流を良くする――

──噛まないからボケるのか、ボケた結果が噛まないのか、その辺の因果関係ははっきりしていないのですか。
斉藤 それについてはさらに研究が進められていますが、実際には相互に関連し合い、支え合っていると思います。
 痴呆症は動脈硬化や脳梗塞などで脳に十分な栄養と酸素がいかなくなる血管型痴呆症と、記憶中枢がやられるアルツハイマー型痴呆症があります。
 アルツハイマー型では記憶を出し入れしている脳の海馬領域が駄目になりますが、私達は噛むことが海馬の神経活動を高め維持していることをマウスの実験で確かめています。噛めない状態にしたマウスでは明らかに、海馬部分のc―fos遺伝子の発現のしかたが劣っていたのです。
 朝日大学歯学部の研究では、固い餌(固形食)を食べさせたネズミの方が、軟らかい餌(固形餌と同じ成分の粉末食)を食べさせたネズミよりはるかにすばしっこく賢いという結果を、迷路テストや危険回避テストで得ています。同時に、固い餌を食べている時は大脳の温度が約0・3度上ったのに対して、粉末の餌を食べている時は0・2度しか上がらないことがわかりました。
 この研究からは、噛むという運動刺激が脳の発達を促進させ、脳の血液循環を良くし、脳細胞の代謝活動を活発にすることが推測されます。
――アルツハイマー型、血管型を問わず、よく噛むことは痴呆症の予防になるというわけですね。
斉藤 噛むという刺激が増えて脳の血流量が増えれば、脳に栄養や酸素が十分に供給されますから、よく噛めばボケの予防につながるわけですね。
 脳の神経細胞は他の細胞と違って一度死滅すると再生しません。見方を変えれば脳にはそれだけたくさんの細胞が用意されているとも言え、さらに脳に長寿物質が存在すると考える方が正解だと思います。
 最近、脳には細胞を長生きさせる特別の栄養因子がいくつもあることがわかってきました。中でもEGF(上皮成長因子)やNGF(神経成長因子)などのホルモンはトップクラスに入り、記憶に関係する海馬領域の細胞維持に重要な働きをしています。
 これらのホルモンは、脳自体でも分泌しますが、唾液をつくる唾液腺からも血液に供給されています。今私達は硬い餌と軟らかい餌を食べさせたネズミの脳を比較しているのですが、硬い餌を食べているネズミの方が、脳の栄養因子が増えている傾向にあることがわかってきました。この結果からも、歯がなかったり、よく噛まないと記憶力が衰えやすくなることがわかります。

かまないとジワジワ忍び寄る成人病
食べ物は"かめば栄養、 かまなければ毒”


――噛むのはボケだけでなく、いろいろな成人病を予防すると言われますね。
斉藤 ですから、食事の時間は闘いと思って、相手(食物)を一生懸命噛み食らうくらいの気構えが大切です。でないと、食物は飛びかかってこそ来ませんが、噛むのをおろそかにするとジワジワと仕返しされるのが成人病です。
"食い物の恨みは恐ろしい”と言いますけれど、それは食べたいものを食べさせられなかった恨みではなく、食べ物が成仏する食べ方をしないと食べ物が化けて復讐にやってくるということですよ。「食べ物を粗末に扱う不埒な奴はこの世から消すぞ」と言わんばかりに、本当に食べ物というのは恐い物なんです。
 食べ物はもともとが生き物ですから、生き物である食べ物を粗略に扱う存在は、生物が共存し合っている自然の生態系からは消されてしまいます。だから太り過ぎの方や糖尿病の方はターゲットにされていると思った方がいいですよ。
 また食べ物自体が本来は毒、一歩間違えば体にとっては毒だということです。どんな美味しいものでもすり潰して静脈注射で点滴すれば、人間は一発で死んでしまう。それくらい恐いものなんです。
 食べ物は、体にとっては異物であり、まさに抗原なんです。その抗原性をなくすために、食べ物は胃や腸で分解されて完全にバラバラにされて初めて栄養物となって吸収されるわけですが、胃袋でも腸でも口を通り過ぎたらどこにも歯はないですから、出来るだけ口の中でよく噛んで、固形の状態で呑み込まない、異物をそのまま呑み込まないことが大切です。
 そうして口の中で、出来るだけ体(胃や腸)が消化しやすい状況を作ってあげること。特にアトピーやジンマシンなどのアレルギーでは治療以前にまず、食べ物を適量とって、しっかり噛んで、口の中でまず抗原構造を壊しやすくするということが非常に大切になります。
 さらに、食べ物を分解する時は消化酵素だけではなく、腸の中のいろいろな細菌が分解消化しますから、壊し方によっては非常に刺激の強い物質になって下痢を起こしたり、或いは発がん成分が出来たりもするので、体に入る前にまず口の中で出来るだけ消化されやすい状態にしておくのは、そうした面でも重要です。
 それを噛まないで、全部体の方に押しつけてしまうのは大変無責任で、食べられる側としてはとてもじゃないが許せる存在ではない、「消えてしまえ」と言うのが、"食い物の恨みは恐ろしい”ということです。
かめば食べ過ぎを防ぎ、
運動効果も上がる
肥満・糖尿病・骨粗鬆症 の予防
斉藤 過剰に摂取された食べ物を必要量だけとって不要なものは排泄するという操作は、人間というマシンに大変に苛酷なフル稼働状態を与えますから、食べ物は必要量を食べる、それも大切です。
 食べ過ぎにならない、必要量だけ食べるには、よく噛んで食べればいいんです。だから、よく噛むことは究極のダイエットにもなり、糖尿病を始め肥満が関係する多くの成人病を予防することにもなります。
 食欲は、脳の満腹中枢と摂食(飢餓)中枢でコントロールされてまして、摂食中枢が働くと食欲が出ます。食べ始めると2〜3分で血糖値が上がり始め、そうすると満腹中枢が刺激されて徐々に食欲にブレーキがかかってきます。そして、15分位で完全にブレーキが効いてきます。
 早喰いすると満腹中枢がよく働かないうちにいっぱい食べてしまいますから、食べ過ぎになってしまうんです。サラリーマンなんか5分位で昼飯をすませますね。軟らかいものばかり食べる傾向にある今の子も、軟らかいものはどんどん呑みこんでしまいますから、よく噛まないで食事を終える。そうすると、食べても食べても満腹中枢が働かないから、食べ過ぎ、栄養のとり過ぎになるのです。
――反対に、太りたい人もよく噛んだ方がいいのではないでしょうか。
斎藤 その通りだと思います。食べた物が十分消化吸収されて栄養の吸収量が上がりますからね。だから、痩せたい人も太りたい人も、食事の量を無理にコントロールするのでなく、よく噛むことで自然に適正な体重になっていくと思います。
 糖尿病の人はよく噛むと過食が防げると共に、唾液の中にはIGFというインスリンと同じ働きのあるホルモンがありますから、一石二鳥なんです。IGFは唾液腺の一つ耳下腺から出ているのですが、これは糖尿病の患者さんの調子がいい時にはオタフク風邪のようにほっぺがふくらんでいることから見つかったのです。糖尿病の人は一口30回、よく噛むことで血糖値が下がり合併症も防げます。
 肥満や糖尿病は運動も大事です。実は噛むことは想像以上に運動量があります。食事を終えた後、汗でタオルを拭うくらいが消費エネルギーが正常な噛み方で、そのくらいしっかり噛んでいれば、早歩きやジョギングしたのと同じくらいの運動量になります。
 そうすると、顎の骨の骨粗鬆症の予防にもなります。カルシウムが骨に定着するためには運動が必要です。運動といっても早歩きや軽いジョギングなどを毎日コンスタントにやればいいんです。ところが、寝た切りの人ではそれも出来ませんから、そうすると噛むしかない。ごく普通のジョギング程度、早歩き程度の負担がかかるようにするには寝た切りになった時も、しっかりと食後汗をかくくらい噛めば、骨粗鬆症にならないし、ボケにもならないんです。

唾液の効用(表1)
唾液の毒消し作用と がん・虫歯の予防

――唾液には発がん性物質を消す作用もあると言われてますね。
斉藤 唾液に含まれている消化酵素「ラクトぺルオキシダーゼ」には、遺伝子を傷つけがんの発生に深く関係している活性酸素の分解を促進させる働きがあります。
 食べ物はそれ自体、体にとって異物であり毒だと言いましたが、それに加えて今の食べ物の中には食品添加物、農薬、環境ホルモンと言われる様々な化学物質が含まれています。そうした体内で活性酸素をつくる物質の毒性を、ラクトペルオキシダーゼは消してくれるんですね。
 カレーライスなどの熱くて刺激性の強い食べ物も、よく噛んで唾液にくるんであげれば刺激性が薄れ、熱も冷め、食道や胃のデリケートな粘膜を保護してくれます。唾液に含まれているムチンという糖蛋白がオブラートの役目をしてくれるんですね。そうしたこともがんの予防につながっていきます。
 また、唾液にはアミラーゼという澱粉を分解してくれる酵素があります。胃潰瘍の人なども普通のご飯をしっかり噛んで口の中でお粥にして上げた方がよっぽど体にとっては上質のお粥となり、お粥をたらふく食べるよりずっと胃に優しくかつ胃を丈夫にしてくれます。
――唾液をよく出すために、水やお茶もよく噛んでから飲めということも昔から言われてますね。
斉藤 唾液には菌を溶かす酵素の「リゾチウム」、菌の増殖を防ぐ糖蛋白「ラクトフェリン」なども含まれ、口の中の雑菌を殺し、自浄作用を促す効果があります。だから、噛めば噛むほど虫歯や歯周病などにもなりにくくなります。
 唾液には外から入ってくる細菌を初期の段階で発育を抑制する働きがある免疫グロブリンのIgAという抗体も含まれています。口の粘膜から分泌されるんです。
 ですから、食事後にお茶をよく噛んで飲み込めば、虫歯の予防に良いですね。
 私は歯科医ですから、ブラッシングの大切さはよくわかっていますけれど、豆や野菜、海草など繊維質の多い固いものをよく噛んで食べていれば、それが歯ブラシの役目をしてくれますし、唾液が歯をきれいに洗ってくれますから、そういう作用でも虫歯や歯周病の予防になるんです。唾液にはスタテリンという酸に抵抗力のある蛋白質も含まれているので、これが酸にだけは弱い歯の表面の固いエナメルを守ってくれています。食後は口の中が酸性になるんですけれど、その度に歯を磨かなくても簡単には虫歯にならないのはスタテリンのお蔭なんです

――精神的なストレスが強くても、虫歯や歯周病になりやすくなるといわれますけれども。
斉藤 緊張すると唾液が出にくくなるんですね。
 そうなると口も臭くなりますが、唾液が十分出ていれば口臭もしなくなります。夜間も唾液の分泌が極端に低下しますから、夜寝る前の歯磨きは徹底的にしましょう。
 唾液で口の中を洗うと、おいしいという味覚の識別、情報を送るのも非常に効率的になります。唾液にはガスチンという亜鉛とくっついた蛋白質があって、それが舌にある味覚の感受性を上げてくれるんです。ソムリエがワインの利き酒をする過程で水でうがいする代わりに固いパンなどを噛むのも、唾液で口を洗うためなんです。

唾液ホルモンの若返り作用

――ところで唾液には、パロチンという若返りホルモンも含まれていると言われますね。
斉藤 今迄の話は"よだれ”として外に出てくる成分についての話です。ところが、唾液に限らずどの分泌液でも外分泌、内分泌とあって、血液中に吸い込まれるのが内分泌いわゆるホルモンです。
 唾液のホルモンにはたくさんあって、パロチンというのは先ほどボケの予防で出てきたEGF、NGFという唾液腺の一つである耳下腺(パロタイド)から出るホルモンです。このホルモンに初めて着目しパロチンと名付けたのは東大の緒方教授のグループで、日本では1950年代から研究されています。
 その研究とは別に20年位前、アメリカのスタンレー・コーエンという研究者が生まれたばかりのネズミから唾液腺を取ったら、毛のツヤが悪くなる、眼も開かない、歯も出ない。唾液には何があるんだろうと調べたところEGFを見つけたんです。最初は髪の毛や皮膚や粘膜に関わっている蛋白質と考えていたんですが、それは細胞の分裂に必要な生命維持に基本的な重要なホルモンだったんです。
 一方、共同研究者のレヴィ・モンタルチーニは唾液からまた別の成分をみつけました。それがNGFで、神経細胞の増殖に唾液の成分を入れると神経の突起がどんどん伸びることを突き止めたのです。
 その研究で二人同時にノーベル賞(1986年)を受賞しましたが、唾液が分泌する過程では体の再生、細胞分裂、さらに脳を含めた神経の正常な働きにもかかわっているこうした重要なホルモンが出てますから、噛むことは本当に大切なんです。

唾液が出なくなると 高齢・少子化、人類滅亡へ

斎藤 今、精子数が10数年前と比べると約3分の1に減って、尻切れとんぼのおたまじゃくしみたいな精子が増えているというデータが非常に多くなっています。日常生活の中にある諸々な化学物質が人体に入り込み、生理的障害を起こしています。これは環境ホルモンと呼ばれ、ダイオキシンなどがその代表と言えます。
 精子減少の原因の一つに、唾液が関係していることが明らかにされて来ました。雄のネズミの唾液腺を取ってしまうと精子の数が3分の1に減って、精子の運動も半分以下に落ちてしまうということが、アメリカで1994年に報告されているんです。
 ところがそこにEGFを入れてやるともろに解決するんですね。噛めば子種の生産も良くなるということです。
――そう言えば最近、よだれ掛けした赤ちゃんを見かけなくなりましたね。昔の赤ちゃんは胸のあたりがベタベタしていたものですが。
斎藤 小児歯科の先生方は、虫歯を治療する時に昔の子はだらだらよだれが出て治療がしにくかったけれど、今は楽になったとはっきり言っています。
 本来よだれの多い子は良く育つんです。昔は溢れんばかりに出て、よだれで風邪を引かせないためによだれ掛けが必要だったんです。しかし、最近の子はよだれが出ない。だからひ弱な子が多くなって、その上生殖能力もなくなればますます高齢化、少子化が進んで、将来が危ぶまれます。
――食べられなくなるというだけでなく、歯滅は確実に死滅に通じるんですね。

ひみこの歯がいいぜ
小顔・うりざね顔の氾濫は、 日本衰退への徴候!?

――今、若者の顔が小作りになっています。短期間で、どうしてこんなに顔の造りが変わってしまったのか不思議に思っているんですが、遺伝子が何か影響しているのでしょうか。
斉藤 一頃流行った醤油顔、ソース顔も小顔の先触れですね。どちらにしても顎が細く、すっきりした顔立ちであることには違いありません(写真3)。
 ものをよく噛まなくなったのは今の子供たちが一世代でつくった食習慣の傾向で、それは食物の欧米化=軟食化、飽食、好きなものだけを食べるという、戦後から始まって高度経済成長で一気に変わった日本の食習慣でもあるんです。
 噛む回数はひみこの時代で3千〜4千回近く、それが食品加工術が進むにつれて少なくなって来まして、それでも戦前戦後の辺りまでは徳川時代とそんなに変わってない、それが戦後50年の間に半分以下になって、顎がぎゅっと小さくなった(図4、表2)。
 その原因を、私は専門のメカノサイトロジーという細胞学の立場から、遺伝子というのは親から受継がれた物がそっくりそのまま発現するのではなくて、環境に応じてそれなりに反応しますから、噛まない習慣が、骨も歯も弱くし、サイズも変えてしまったと考えています。遺伝子は変わらなくても、物理的な力を加えた状況の中で発現の仕方が違ってくるんです。
 今、親知らず(第三臼歯)はもとより第二臼歯すら生えなくなった子供が増えています。歯がなくなるのは最終的に人類去勢、人類衰退の徴候と言っても過言ではないんです。

"ひみこの歯がいいぜ”を 頭に、一口30回かんで

――眠っている遺伝子を呼び起こすには、噛んで適度な力を与えれば良いというわけですね。咀嚼回数は30回くらいが適当ですか。
斉藤 そうですね。大体一口20回から30回。現代人は小学生から大学生まで10回程度なんです。だから今の3倍噛めば戦前の当たり前の回数になるから、最低でもその位して下さいと。
――時間にすると1回の食事でやはり30分位はかけないと。
斎藤 30分は最低ね。出来れば1時間ゆっくりかけるのが理想です。ところが今の子はほんの3分から5分ですよ。
 みんな忙しいと口癖のように言いますけれど、食べる時間を倹約すれば命全体が倹約されて短命になってしまう。それでは何のために時間を倹約したのか分からなくなってしまいます。
――毎回の食事に1時間もかけられない現代人は日常、ガムを噛むのもいいでしょうか。
斎藤 いいですね。
 最近出たキシリトールという甘味料を使用したガムは、今までのと違って第三の変革かなと思っています。お砂糖を使ったガムは虫歯を作るというので、アスパルテームやソルビトールという代用甘味剤を使用したガムが出たのですが、これには発がん性や下痢を起こしたりの問題があった。ところが白樺の樹液からとった天然のキシリトールは適当な甘味があるだけでなく、カロリーもない上に、酸の産生を抑えてくれる働きもあるので、食後ガムを噛むことを習慣にすることは大変よい効果があると言えます。
 しかし、やはり基本は食事。私は「ひみこの歯がい〜ぜ」とよく言うのですが、「ひ」は肥満防止、「み」は味覚の向上、「こ」は言葉の発音がはっきり、「の」は脳の発達、「は」は歯の病気の予防、「が」はがん予防、「い」は胃腸快調、「ぜ」は全力投球の活力が生まれるということです。それを頭において、食事を時間をかけてよく噛んでいただきたいと思います。
(インタビュー構成・本誌功刀)